横浜中華街物語

1859年欧米列強の圧迫に徳川幕府は横浜を開港し、ここに欧米人居留地区を設けました。
その時彼らとともにやってきた多数の中国人が今の山下町に住み始めた事から中華街が発祥しました。3つの刃物を商売の基本とする彼らは、この地で生活していくために「布はさみ」で洋服屋、「髪はさみ」で散髪屋、「料理包丁」で料理店を経営、さらにそこから色々なビジネスが広がり、彼らを相手にした料理店が数多く出来た事が現在の横浜中華街の発祥となっています。

重慶飯店物語

1951年、 故 李海天は横浜中華街にある中華学校の招聘により28歳の時に台湾より貨物船で出航し、三日かけて神戸に着きました。列車で横浜に向いましたが車窓から見る大阪や名古屋の大都市の状況は想像をはるかに超えるひどいものでした。ほとんどの街がアメリカ軍の空襲により廃墟と化していたのでした。

横浜に着いた李海天は早速横浜中華街を訪ねました。中華街も戦災にあい壊滅状態でありましたが焼け跡には露店商が軒を並べ、庶民達の商業活動は活発で他の街と比べると中華街は活気にあふれていました。李海天は横浜中華学校(現横浜中華学院)の教師として勤めるかたわら中央大学に通い法律と経済の勉強をしました。
やがて半年後、知人の紹介で華僑総会の事務局長という重要な職務に着き七年ほど国内の華僑の世話を見る仕事に就いたのでした。台湾に住む婚約者であった呉延信が日本にやってきたのもこの頃でした。妻となった呉延信は横浜の医学大学に入学しました。
やがて二人に大きな転機が訪れました。二人は日本の大学を卒業し、台湾に戻って弁護士になろうとしていた李海天と医者を目指していた妻の呉延信でしたが長男の李宏道(現社長)が生まれたことによって、子供の教育や今後の生活設計を考えた時に日本で何か新しい仕事を見つける事が最良の選択と考えました。もちろん祖国への想いは絶ち難く、なんらかの形で国のために働きたいという気持ちも強く、そうした思案の末に日本で事業家として成功する事で祖国に何らかの恩返しをしていこうという結論に達しました。


1959年8月重慶飯店は現在の重慶飯店本館の場所にオープンしました。1階はテーブル席20〜30席ほどで二階は小宴会が出来るように畳の部屋にしました。フロアは夫婦とパートが一人、調理場では陳健民の弟子である17歳の若き料理人、荘明義が腕を振るいました。
この頃の中華街は戦後の闇市的な状況から大きく変化し、大通りにはいくつかの中華料理店が並び、大通りと交差するいくつかの横道には八百屋や魚屋、肉屋といった店と外人バーなどが混在し、日曜日になるとようやく戦後の耐久生活から開放された人達が異国情緒を味わうために中華街にやってきて大通りを散策するようになりました。しかしながら大通りから外れた北京小路という路地にあった重慶飯店は立地に恵まれないためなかなか大通りを行き来する観光客の流れを引き寄せられないでいました。

そこで打ち出したのがランチタイムメニューでした。ランチタイムメニューは一品料理とスープ、ご飯、そしてザーサイで350円、一週間ごとにメニューを変えました。これが客の評判を呼び繁盛しました。その後も重慶飯店別館をオープンし、中華街で初の神殿式結婚式場を併設、結婚式、披露宴の申し込みが殺到しました。
レストラン経営が軌道にのると李夫婦は売店計画を実行に移しました。その当時は中華街では中華饅頭や中華菓子はレストラン店内で販売する程度であまり重きをおいていませんでした。しかし二人は中華街のレストランに入らなくてもぶらぶらとウィンドーショッピングをする人達を見て中華菓子と中華饅頭を専門に売る売店を開く事にしました。そしてオープンした売店の一番の特徴はスーパーマーケット形式のセルフサービスにした事でした。それまでの中華街での物販はガラスの陳列ケースに商品を並べるか、メニューに紹介するかでお客様の注文によって店員が販売する対面式が当たり前になっていたためスーパーマーケット形式の売店は横浜中華街に大きな反響を呼びました。休日にはお客様が押しかけかごいっぱいに重慶飯店ホームメイドの中華饅頭や中華菓子を詰め込みレジに並びました。

こうして重慶飯店のレストランを中心に第一売店、第二売店と事業を拡大していった李夫婦は次に目指したのはホテル経営でありました。夫婦でサンフランシスコに旅行した時にチャイナタウンの入り口に建つホリデイ・インというホテルに泊まりいつかは横浜中華街にもこのようなホテルを建てたいと心に決めたのでした。
そうして1981年に横浜中華街で国際級のシティホテル「ホテルホリデイ・イン横浜」(現ローズホテル横浜)をオープンさせました。それ以来長男、李宏道(現代表取締役社長)、次男、李宏為(現専務取締役)が二人の意志を受け継ぎ重慶飯店、ローズホテル横浜を経営しております。

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